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名古屋高等裁判所 昭和42年(ネ)583号 判決

控訴人(反訴原告)兼亡須永伊之助訴訟承継人

控訴人(以下控訴人という) 須永正臣

控訴人(反訴原告、以下控訴人という) 伊藤松江

右両名訴訟代理人弁護士 本庄修

同 大塚錥子

亡山本恒一郎訴訟承継人被控訴人(反訴被告、以下被控訴人という) 金子て

右訴訟代理人弁護士 井谷孝夫

同 辻貴雄

主文

一  原判決中控訴人ら敗訴の部分を取り消す。

二  被控訴人の請求を棄却する。

三  別紙第二目録二、四、五記載の各土地はいずれも控訴人らの共有であることを確認する。

四  訴訟費用は第一、二審を通じ、かつ本訴、反訴とも被控訴人の負担とする。

事実

第一当事者の申立て

一  本件控訴について

1  控訴人ら

(一) 主文一、二と同旨の判決。

(二) 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

2  被控訴人

(一) 本件控訴をいずれも棄却する。

(二) 控訴費用は控訴人らの連帯負担とする。

二  反訴について

1  控訴人ら

(一) 主文三と同旨の判決。

(二) 訴訟費用は被控訴人の負担とする。

2  被控訴人

(一) 控訴人らの請求を棄却する。

(二) 当審での訴訟費用は控訴人らの負担とする。

第二当事者の主張

一  被控訴人の本訴請求の原因

1  被控訴人は別紙第一目録一、二記載の土地(以下一七〇、一七一の土地という。なお同様に同目録および別紙第三目録記載の土地についても地番のみで表示する。)を所有し、一三〇の土地につき六分の一の共有持分権を有している。

なお右各土地に関する所有権移転関係、分筆登記、表示変更登記は別紙第三目録一、二記載のとおりである。

2  右各土地の位置、範囲は、一七一の土地が別紙第二目録一記載の甲地、一七〇の土地が同目録三記載の乙地、一三〇の土地が同目録五記載の丙地のとおりである。

3  山本恒一郎(被控訴人の被訴訟承継人)は、本訴提起当時(昭和三六年三月二〇日)、一七〇、一七一の各土地の所有権および一三〇の土地の共有持分権(六分の一)を有していた。しかし須永伊之助(控訴人正臣の被訴訟承継人)および控訴人両名は、甲乙地が一六七の一ないし五の土地の一部に、丙地が一七三の一、二の土地にあたり、いずれも同人らの共有(持分三分の一ずつ)にかかる土地であると主張し、山本恒一郎の右所有権および共有持分権の及ぶ範囲を争い、本訴提起後、甲乙丙地に立入り、これを埋め立てた。ところで山本恒一郎が昭和四四年二月七日死亡したので、臼田みちと被控訴人が共同相続し、昭和四六年六月三〇日遺産分割協議がととのい、被控訴人は一七〇、一七一の各土地の所有権および一三〇の土地の共有持分権を取得した。他方須永伊之助が昭和四三年七月六日死亡したので、控訴人正臣は一六七の一ないし五、一七三の一、二の土地の各共有持分権(三分の一)を相続により取得した。

4  一七一の土地が甲地に、一七〇の土地が乙地に、一三〇の土地が丙地にあたることは次の事実からみて明らかである。

(一) 旧地図の表示と現況との一致

(1) 津地方法務局保管の津市(旧)大字下部田字東大谷の地図(甲第一五号証)、同字西大谷の地図(甲第一六号証)はもと同法務局に備え付けられていた土地台帳附属地図の原本であり、津市役所保管の東大谷の地図(甲第一三号証)と西大谷の地図(甲第一四号証)(以下上記各地図をいずれも仮に旧公図という。)は前記各原本の副本であり、上記各地図(以下すべて旧公図という。)はいずれも昭和一九年における町名地番変更前の表示に従って記入されている。

(2) 右旧公図の表示はいずれも正確であって、その表示する土地の位置、範囲、形状は旧地番で表示した当時における土地の現況と一致している。そして右旧公図作成のいきさつは次のとおりである。すなわち津地方法務局保管の旧公図は明治八年ころ三重県(旧)安濃郡下部田村役人により作成された字限地図であり、その後津税務署に備付け保管されていたが、昭和二五年八月一日津地方法務局に移管されたものである。

津市役所保管の旧公図は、右地方法務局保管の旧公図の副本であり、もと旧下部田村に備付け保管されていたが、市制施行により、津市役所に移管されて備付けられることになったものである。

(3) 右のとおり東大谷と西大谷の旧地番で表示した土地の所在位置、範囲、形状は、右各旧公図の表示と一致していたが、旧公図(甲第一五号証)の表示のうち一二五六の一、二の各土地については地番が逆に記入されている。これは右各土地の面積と右旧公図表示の各土地の大きさとを比較し、地番の枝番を付ける順序について一二五五の一、二の土地の枝番の順序とを対照してみるとわかる。これは明治三九年三月津税務署によって誤記されたものである。

(二) 控訴人らのいう新公図表示の不正確

現在右旧公図にかわって津地方法務局および津市役所に備え付けられている新公図は、前記の町名地番変更後の表示に従って記入されているが、津市が測量の経験未熟者に作成させたものであり、土地の各筆の位置、形状、地番の表示が町名地番変更後の現況と一致しない箇所が多く、現在では、津市役所の関係職員でさえも、右新公図のみに依拠せず、他に確実な根拠を求めているほどである。特に旧公図の一二五六の一(右誤記の訂正後の表示)に相当する新公図の箇所に一七一と記入されるべきところ、間違って一六七と記入され、旧公図の一二五五の二(右誤記の訂正後の表示)に相当する新公図の箇所に一六七と記入されるべきところ、間違って一七一と記入されているほか、一七二、一七三の各土地の西側に公道がないのに、これが存在する如く記入され、一三〇の土地が一七三の土地の東北方に存在しているのに、西北方に存在する如く記入されている。

それ故公図を参照して土地を特定するにあたっては、新公図ではなく、旧公図によるべきであり、現在の地番を右旧公図表示の旧地番に引き直したうえ、旧公図によって当該の土地の位置、形状、範囲を特定するのが正しい方法である。

(三) 甲乙地の現況

(1) 甲乙地は明治初年ころから昭和三七年一〇月ころまで南北に細長い形状で存在し、その中央部から南方にかけて東側に向い幾分湾曲し、東側は一二五五の土地と、西側は幅員約一メートルの通路にそれぞれ接し、東方に向かい下り傾斜し、草生地であった。

(2) 丙地の東北方に津市大字下部田一三〇四番二畑一反六畝二二歩および同所同番一九山林三畝八歩が存在していたが、藤堂安雄が明治三七年四月二日所轄官庁の許可を得て右土地を墓地に変更し、そこに多数の墓が移された。そして当時一二五五と一二五六の土地上に墓地への道路が新設され、これらが分筆後の一二五五の三と一二五六の三の各公衆用道路であり、別紙第一図面表示のトト'ルbル'ルルaトの各点を順次直線で結んだ部分が右公衆用道路であり、墓参者は甲地の西側の道路から右公衆用道路へ入り通行していた。

(四) 丙地の現況

丙地の南側には水量保持に十分な東西に走る堤防が明治初年ころから昭和三八年六月ころまで存在し、堤防の北側は昭和初年ころまで溜池であり、その堤防には樋門が設置されていた。その後も水溜りが一部残存し、ふといが生立し、その他の全域内にわたって笹が生えていた。右溜池は付近の田に農業用水を供給していた。かように一三〇の土地の登記簿上の地目である溜池は現況と一致していた。

(五) 旧自作農創設特別措置法(以下自創法という。)による買収処分および農地法による売渡処分

(1) 昭和二三年六月当時一六七、一六八、一七三の各土地は土地台帳上、および現況ともいずれも田であり、これを前提として、別紙第三目録三、四記載のとおり国は山本恒一郎から右各土地を買収し、これを戸野元蔵に対し売り渡した。

(2) すなわち、津市農地委員会は、買収すべき土地につき一筆調査をし、かつ、土地台帳を閲覧し、一六七、一六八、一七三の各土地が公簿上も現況もいずれも田であることを確認し、その他の農地とともに、昭和二三年六月第六回農地買収計画を樹て、三重県農地委員会から右買収計画につき承認を得た。そして同県知事は同年七月一日右山本に対し買収時期を同月二日と定めた買収令書を交付した。右各書面には、一六七、一六八、一七三の各土地の土地台帳上の地目を田と表示し、現況につき記載がなかったが、現況についても田であることを前提としたものである。また同県知事から戸野元蔵あての右各土地についての売渡通知書には右各土地の地目が土地台帳上も現況も田と記載されていた。

(3) ところが、一七〇、一七一の各土地の土地台帳上の地目は山林であり、甲乙地の現況は草生地であり、一三〇の土地の土地台帳上の地目と丙地の現況はいずれも溜池であったのであるから、右買収、売渡の各処分の対象物件が非農地の甲乙丙地でなかったことは明らかである。

(4) なお戸野元蔵が須永伊之助と控訴人ら三名に対し一六七、一七三の各土地を売渡したときも、売渡証書に右各土地の表示として、右(2)の売渡通知書添付の物件目録をそのまま流用して、右売渡証書の添付物件目録としたいきさつがある。

(5) 仮に一六七の一ないし五の土地の一部が甲乙地、一七三の一、二の土地が丙地であるとすれば、前記のとおり、甲乙丙地は非農地であるから、右買収処分と売渡処分には、明白かつ重大な瑕疵があり、右各処分は当然に無効であり、山本恒一郎はそれらの土地の所有権を依然として有していたことになり、したがって被控訴人は昭和四四年二月七日山本恒一郎の死亡により右所有権を相続により取得したものである。

(六) 土地の占有

山本恒一郎は甲乙地の西側に接する道路と丙地の東側に接する道路を通行して、右各土地を常時監視して占有し、被控訴人は右山本の死亡した昭和四四年二月七日以降昭和四九年まで同様に占有していた。なお右山本は、一六七、一六八、一七三の各土地を所有していた当時、右各土地の用水池として一三〇の土地を使用占有していた。

(七) 一六七、一七三の各土地の位置

控訴人ら主張の一六七の土地は乙地の東側に、同主張の一七三の土地は丙地の南側に存在している。

5  よって被控訴人は控訴人らとの間で甲乙地が自己の所有であることおよび丙地が自己において六分の一の共有持分権を有する土地であることの確認ならびに同人らに対し右各土地への立入り禁止を求める。

二  本訴請求原因に対する控訴人らの認否

1  請求原因1の事実(ただし一二五六の土地の分筆の時期および一二五六の三の土地の分筆登記の経由日を除く)は認める。

2  同2の事実は否認する。

3  同3の事実(外形事実)は認める。

4(一)(1) 同4の(一)の(1)の事実は認める。

(2) 同(一)の(2)は争う(不知を含む。)。

(3) 同(一)の(3)の事実は否認する。

(二) 同(二)の事実は否認する。

(三)(1) 同(三)の(1)の事実中、甲乙地が草生地であったことは否認するが、その余の事実は認める。

(2) 同(2)の事実は否認する。

(四) 同(四)の事実は否認する。

(五)(1) 同(五)の(1)の事実中一六七、一六八、一七三の土地の現況が田であったことは否認するが、その余の事実は認める。

(2) 同(2)の事実中右土地の現況が田であったことは否認するが、その余の事実は認める。

(3) 同(3)の事実中一七〇、一七一、一三〇の各土地の土地台帳上の地目の表示は認めるが、その余の事実は否認する。

(4) 同(4)の事実は認める。

(5) 同(5)は争う。

(六) 同(六)の事実は否認する。

(七) 同(七)の事実は否認する。

三  本訴請求原因に対する控訴人らの反論および反訴請求の原因

1  一六七の一ないし五、一七三の一、二の各土地につき、控訴人正臣は三分の二の共有持分権を、控訴人松江は三分の一の共有持分権を有している。

なお右各土地についての所有権移転関係、分筆登記(ただし明治三九年三月の分筆および一二五五―三の分筆登記を除く)表示変更登記、更正登記は別紙第三目録三、四記載のとおりである。

2  右各土地の所在位置、範囲は、甲乙地が一六七の一ないし五の土地の一部にあたり、丙地は一七三の一、二の土地にあたる。

3  しかし被控訴人は甲地が一七一の土地に、乙地が一七〇の土地に、丙地が一三〇の土地にあたると主張し、控訴人ら主張の共有権の及ぶ範囲を争っている。

4  一六七の一ないし五の土地の一部が甲乙地に、一七三の一、二の土地が丙地にあたることは次の事実からみて明らかである。

(一) 旧公図の記載事項の間違いと除却処分

旧公図には記入の間違いがあっただけでなく、昭和一九年二月一八日三重県公示第八九号の町名地番変更に伴い、津税務署備付けの旧公図が除却処分に付された。したがって、旧公図は所有関係を立証する証拠にはならない。

(二) 新公図の作成とその記載内容の正確

(1) 津市は昭和一九年ころ橋北土地区画整理組合の応援を得て、東大谷、西大谷等の地域の位置、形状、面積を調査し、現況に一致した正確かつ厳密な地図の作成に着手し、昭和一九年二月一八日地図(以下仮に新公図という)を完成し、これがその後、津税務署および津地方法務局に土地台帳附属地図として備え付けられた。

(2) これよりさき、右組合が昭和一六年一二月津市橋北土地宝典引用にかかる地図を作成したが、その作成当時の組合長は山本恒一郎であった。右新公図は右宝典中の該当部分の地図と符合している。

(3) 新公図によると、一六七の一ないし五の土地の一部が甲乙地に、一七三の一、二の土地が丙地にあたることは明らかである。

(三) 甲乙地の現況

(1) 甲乙地は、大部分が急勾配の傾斜地であり、東側と北側では公道に接し、その一部が田であり、他の部分が一六八の土地(田)の畔になっていた。山林の東側に隣接して田が存在するときは、田側の山林に生立する木等を数間幅にわたって伐採して日照を得ているが、その伐採部分の土地が畔といわれていた。

(2) 甲乙地の中間にある通路は、一二五六の三の公衆用道路ではなく、山本恒一郎により新設された私道である。

(四) 丙地の現況

丙地は一七三の土地にあたり荒蕪地であったが、溜池ではなく、その東側と西側は公道に接していた。山本恒一郎は大正末期ころ丙地の南側に堤防状の盛土をし、これを公道のように偽装し、かつ丙地を溜池であるかのようにみせかけ、丙地の西側の通路を閉鎖した。このようにして丙地を一三〇の土地とみせかける工作をしたのである。

(五) 自創法による買収処分および農地法による売渡処分

(1) 別紙第三目録三、四記載のとおり、三重県知事によりなされた買収処分および売渡処分はいずれも前記新公図に基づいて特定された一六七、一六八、一七三の各土地を対象とするものであったので、右物件中には甲乙丙地が含まれていたことは明らかである。

(2) なお須永伊之助および控訴人らが戸野元蔵から一六七、一六八、一七三の各土地を買い受けた際にも、それらを新公図によって特定した。

(六) 一七〇、一七一の各土地の位置

別紙第一図面表示のチリ線の西側に公道があるが、その北方に右各土地が存在し、現在被控訴人がそれらを占有している。

(七) 一三〇の土地の状況

一七三の土地の西側に道路があり、その西側に一三〇の土地が存在し、現在埋立てずみである。しかし埋立前右土地は溜池であり、現在でも雨水、地下水が流れ込み、その一部の土地に水が溜り、湿地状態となり、篠、笹等が生立している。

5  甲乙丙地の時効取得

(一) 仮に右各土地が一六七の土地の一部、一七三の一、二の土地にあたらないとしても、国は昭和二三年七月二日山本恒一郎から甲乙丙地が一六七、一七三の各土地の一部にあたるものとして買収し、その引渡しを受け、三重少年院の前身の恵精学舎をして草刈り場および稲の干し場として占有させ、よって所有の意思をもって平穏、公然に占有し、かつ占有のはじめに善意、無過失であり、戸野元蔵が昭和三一年一一月一日国から売渡処分を受けるとともに、右占有を承継した。したがって昭和三三年七月二日の経過により取得時効が完成したところ、須永伊之助および控訴人らは、戸野に対する買主たる債権者としてこれに代位して原審で右時効を援用したので、甲乙丙地についての三分の一ずつの共有持分権を取得した。

(二) そして須永伊之助が昭和四三年七月六日死亡したので、控訴人正臣は同人の共有持分権を相続により承継した。

6  よって控訴人らは、被控訴人との間で甲乙地部分(原審での被控訴人の所有権確認請求の認容部分)および丙地が自己らの共有であることの確認の裁判を求める。

四  反訴に対する被控訴人の本案前の抗弁

1  本件反訴は、本訴係属の一六年後、当審の口頭弁論終結直前に提起されたものであり、著しく時期に後れた攻撃方法であるから許されない。

2  反訴請求中丙地の所有権確認請求の訴については、丙地の共有権を主張して控訴人らの権利を争っている他の五名の共有者をも被告とすべきであるから、被控訴人のみを被告とする右訴は不適法である。

五  反訴請求原因等に対する被控訴人の認否

1  反訴請求原因等1の事実(外形事実。なお、昭和三五年三月一五日以降の地目表示変更登記、地積の更正登記の事実を除く)は認める。

2  同2の事実は否認する。

3  同3の事実は認める。

4(一)  同4の(一)の事実中旧公図の記入の間違いの事実は否認する。

(二)(1) 同(二)の(1)の事実は否認する。

(2) 同(2)の事実中新公図と宝典の地図とが符合するとの点を除き、その余の事実は認める。

(三) 同(三)ないし(七)の事実は否認する。

5  同5の(一)の事実は否認する。

第三証拠関係《省略》

理由

一  被控訴人が一七〇、一七一の土地を所有し、一三〇の土地につき六分の一の共有持分権を有していること、右各土地に関する所有権移転関係、分筆登記、表示変更登記が別紙第三目録一、二記載のとおりであること(ただし一二五六の土地の分筆の時期および一二五六の三の土地の分筆登記の経由日を除く)、次に一六七の一ないし五の土地および一七三の一、二の土地につき、控訴人正臣が三分の二の共有持分権を、控訴人松江が三分の一の共有持分権を有することとされ、右各土地に関する所有権移転関係、分筆登記が別紙第三目録三、四記載のとおりであること(ただし一二五五の土地の分筆の時期、一二五五の三の土地の分筆登記を除く)は当事者間に争いがなく、一二五六、一二五五、一七三の各土地についての前記以外の分筆の時期、分筆登記、表示変更登記、更正登記が別紙第三目録一、三、四記載のとおりであることは《証拠省略》により認める。

ところで本訴提起当時(昭和三六年三月二〇日)山本恒一郎(被控訴人の被訴訟承継人)が一七〇、一七一の各土地の所有権および一三〇の土地の共有持分権(六分の一)を有し、一七一の土地が甲地に、一七〇の土地が乙地に、一三〇の土地が丙地にあたると主張し、これに対し、須永伊之助(控訴人正臣の被訴訟承継人)および控訴人両名が一六七、一七三の各土地を共有し、一六七の土地の一部が甲乙地に、一七三の土地の一部が丙地にあたると主張し、それぞれ相手方の権利を争い、須永伊之助および控訴人らが本訴提起後甲乙丙地に立ち入り、これを埋立てたこと、山本恒一郎が昭和四四年二月七日死亡し、被控訴人臼田みちが共同相続したが、昭和四六年六月三〇日遺産分割により被控訴人が一七〇、一七一の各土地の所有権を、一三〇の土地の共有持分権を取得したこととされ、他方須永伊之助が昭和四三年七月六日死亡し、控訴人正臣が一六七の一ないし五、一七三の一、二の各土地の共有持分権(三分の一)を相続により取得したとされていることは当事者間に争いがない。

二  そこで甲乙地が一七〇、一七一の各土地または一六七の一ないし五の土地の一部のいずれにあたるか、次に丙地が一三〇の土地または一七三の一、二の土地のいずれにあたるかについて以下その事情を検討する。

1  「旧公図」と「新公図」について

被控訴人は新公図の調製以前に津税務署等に備え付けられていた旧公図の方がその後これにかわって津地方法務局に備え付けられている新公図よりも正確であるから、現在公図により係争土地を特定するにあたっては、現在の地番を旧公図表示の旧地番に引き直し、旧公図により、当該土地を特定すべきであると主張し、これに対し、控訴人らは新公図の方が正確でもあり、もともとこれに基いて買収売渡処分がなされているのであるから、新公図によって係争土地を特定すべきである旨主張している。ところで《証拠省略》によると、津地方法務局保管の津市(旧)大字下部田字東大谷、同字西大谷の各旧公図(甲第一五、一六号証)は明治八年ころ三重県(旧)安濃郡下部田村役人により作成された字限地図であり、その後現在の津税務署にあたる収税部出張所に備付け保管されていたこと、右旧公図が原本であり、その副本が津市役所保管の東大谷、西大谷の旧公図(甲第一三、一四号証)であったこと(ただしこの点は当事者間に争いがない。)、津税務署保管の右旧公図は同署に備え付けられていたが、昭和一九年二月一八日三重県公示第八九号の町名地番変更により除却処分に付されたこと(なお右旧公図はその後昭和二五年津税務署から津地方法務局に引き継がれたこと)、右各旧公図はいずれも見取図であり、測量および作図の技術が未熟であったため、現況に合わず不正確な箇所が数多くあったこと、ところで津市橋北土地区画整理組合が昭和九年七月一九日設立され、山本恒一郎が昭和一五年一〇月二九日以前からその組合長に就任したが、同組合は昭和一六年一二月津市大谷町付近の地図等を作成し、この地図等を掲載した三重県津市橋北土地宝典が昭和一七年一月二〇日出版社により発行されたこと、津市は昭和一六年ころ旧公図を修正するため新公図の作成に着手し、右宝典を参考資料とし、現地調査を行い、昭和一九年新公図を完成し、その原本を津税務署に引き渡し、その副本を津市役所で保管していたこと、そして津税務署は右新公図を土地台帳附属地図として備え付け、昭和二五年これを津地方法務局に移管したこと、同法務局もこれを同じく土地台帳附属地図として現在にいたるまで備付け保管していること、新公図の内容は右宝典掲載の当該の地図とほぼ一致しており、さらに新公図の作成にあたり現地調査により旧公図に修正が加えられたので、概して旧公図よりも新公図の方が現況と符合する確率が高いこと、新公図上では甲乙地は一六七の一ないし五の土地の一部に、丙地は一七三の一、二の土地にほぼあたることが認められ(る。)《証拠判断省略》なお被控訴人は津地方法務局保管の旧公図には一二五六の一と一二五六の二とが間違って逆に記入され、かつ新公図には同じく一六七と一七一とが間違って逆に記入されていると主張し、原審での(被控訴人)山本恒一郎本人の供述中には、その主張に沿う供述部分があるが、これは《証拠省略》に対比し措信し難く、そのほかに右主張を認めるにたりる的確な証拠はない。

以上の認定事実からわかるように、旧公図よりも新公図の方がその表示する土地の位置および形状等が現況と符合する蓋然性が高く、そして新公図によると、甲乙丙地は控訴人らの主張に沿う位置にあるということができる。

2  甲乙地の現況等について

(一)  甲乙地が明治初年ころから昭和三七年一〇月ころまで南北に細長く存在し、その中央部から南方にかけて東側に向い幾分湾曲し、東側は一二五五の土地と、西側は幅員約一メートルの道路にそれぞれ接し、東方に向かい下り傾斜していたことは当事者間に争いがなく、《証拠省略》によると、埋立前甲地と乙地の一部が草生地であり、乙地の他の一部が田であったことが認められる。

ところで本件関係では津市農地委員会が買収すべき土地を一六七、一六八、一七三の土地と表示して、昭和二三年六月農地買収計画を樹立し、三重県農地委員会が右買収計画の承認をし、同県知事が同年七月一日右山本に対し買収時期を同月二日と定めた買収令書を交付したこと、そしてその関係各書面には、右各土地の地目が土地台帳上田と表示され、次いで同県知事から戸野元蔵あてなされた売渡通知書の記載中には、土地台帳上と現況とも田と表示されていた(なお同人と須永伊之助、控訴人両名との間に作成された売渡証書にも右通知書の物件目録を流用した)ことはいずれも当事者間に争いがない。

しかし一方甲地と乙地の一部の現況は前記のとおり草生地であり、乙地の他の一部の現況は田であったが、《証拠省略》によると、津市農地委員会の買収計画、三重県知事の買収処分および売渡処分ならびに戸野元蔵と須永伊之助、控訴人らとの間の売買契約はいずれも土地台帳附属地図となった新公図に基く地番によってなされたこと、なお右新公図上一六八の土地は公簿上も現況も田であり、その西側に一六七の土地の一部にあたる甲乙地が隣接し、さらにその西側にある道路の西方には雑木林が接しており、一六八の土地への日照の関係上右雑木林と一六八の土地との間に甲乙地が介在していて地物の関係上その方が農耕上効果的であり、また稲干場としての効用もあることなどの配慮もあって同市農地委員会は甲乙地が前記のとおり一六七の土地の一部として土地台帳上田であることから、現況の大部分が草生地であり、直ちに稲を植栽できなくても、現況を田となしてそれと接する田とともに買収の対象としたことが認められ(る。)《証拠判断省略》

(二)  次に被控訴人のいう公衆通路の位置関係について考察するに、まず原審での(被控訴人)山本恒一郎本人尋問の結果および弁論の全趣旨によると、明治三七年ころ丙地の北方付近に墓地が造成されたことが認められる。そして右本人の供述中には、そのころ一二五五の三と一二五六の三の各公衆用道路が甲地と乙地との中間に新設され、その位置、範囲が別紙第一図面表示のトト'ルbル'ルルaトの各点を順次直線で結んだ部分の通路にあたるかのような部分があるが、これは《証拠省略》にてらしてたやすく信用できない。また甲第一五号証の旧公図だけでは、右各公衆用道路が右通路にあたるものと認めることはできず、そのほかに右公衆用道路の位置を被控訴人のいうとおり認定するにたりる的確な証拠はない。かえって、《証拠省略》によると、山本恒一郎が大正六年の土地買受け後はじめて右通路を私道として新設したものにすぎないことが認められ、公衆用道路が被控訴人主張のとおり一七〇の土地と一七一の土地との中間に介在し、両土地を区別しているものということはできない。

(三)  以上の(一)(二)認定のとおりであるから甲乙地の現況が全部田でなく、草生地であっても、そのことから甲乙地を一七〇、一七一の各土地と認定することはできず、また公衆用道路が甲乙地に介在するということができないので、甲乙地を一七〇、一七一の各土地であると推認することもできない。

3  丙地の現況等について

(一)  《証拠省略》によると、丙地は旧東大谷地区内に存在し、埋立て前、葦笹等が生立していた荒蕪地であったが、水溜りではなく、丙地の北方から流れてくる雨水は丙地の周囲を通過してその南方にある津市大谷町一七二番の土地に流入したこと、丙地の南側にある堤防状の盛土の中央よりやや西方寄りに流出口があったが、その南側にあった田はいずれも湿田であったため、農業用水の取入れを必要としなかったことが認められ、丙地が水をたたえた溜池状を呈していたことがあったとの《証拠省略》は前掲の各証言にてらしたやすく信用できず、そのほかに右認定を覆すにたりる的確な証拠はない。

(二)  そして《証拠省略》によると、戸野元蔵は丙地をも含めて売渡しを受けて丙地を一七三の土地の一部として葦、笹等を刈り取るなどしてこれを管理し、一六七、一六八の各土地とともに須永伊之助と控訴人らに売り渡したことが認められる。

(三)  以上認定のとおり、丙地は公簿上の地目のように溜池ではなく、単なる荒蕪地であり、これに既述の一七三の土地の買収、売渡処分のいきさつを考慮すると、丙地は一三〇の土地ではなく、一七三の一、二と認定するのが妥当であるというべきである。

4  甲乙丙地の占有について

《証拠省略》中には、右買収処分後も右各土地を占有していた趣旨の供述部分があるが、これは《証拠省略》にてらしたやすく信用できず、かえって、右証拠によると、戸野元蔵は前記売渡処分を受けた後、右各土地内の草等を刈り取るなどして占有管理していたことが認められる。

5  以上の認定事実からすると、他に特段の事情なきかぎり、甲乙地は一六七の一ないし五の土地(同地番表示の現地)の一部に、丙地は一七三の一、二の土地(同地番表示の現地)にあたるものと認定するに足り、したがって、甲乙丙地について控訴人正臣が三分の二の共有持分権を、控訴人松江が三分の一の共有持分権を有しているものということができる。

なお右認定事実と《証拠省略》とを総合すると、別紙第一図面表示のチリ線の西側に道路があり、その道路の北方に一七〇、一七一の各土地が存在し、一三〇の土地が丙地の西方に存在するものと認定することができる。

三  被控訴人は、甲乙丙地についての買収処分および売渡処分の無効を主張しているが、前記認定のような対象物件たる土地の状況(殊に二の2の(一)後段、3の説示参照)のもとでは、現況が草生地または荒蕪地であるのをそれぞれ現況田として前記の各処分がなされたとしても、いまだそれにつき重大かつ明白な瑕疵があるということはできないので、右各処分はいずれも有効であるといわざるをえない。

四  被控訴人は控訴人らの反訴の提起が時機に後れたと主張しているが、反訴の提起は単なる攻撃防禦方法ではないから、民訴法一三九条に該当しないものというべく、また被控訴人が反訴提起の不同意を表示しているとしても、原審における審理の中心は甲乙丙地が当事者のいずれの所有(共有)に属するかの点にあり、その所有権(共有持分権)の及ぶ土地の位置、範囲および所有権(共有持分権)の帰属については充分な審理が尽されているものということができる。したがって、当審における本件反訴の提起により、被控訴人が審級の利益を失うことにはならないものと解せられるので、反訴提起につき、被控訴人の同意がなくても、本件反訴は適法であると解すべきである。

次に被控訴人は丙地についての反訴請求については、丙地の共有持分権を主張している被控訴人とその他の五名の者とは必要的共同訴訟関係にあり、その一人のみを反訴被告とする本件反訴は不適法であるかのような主張をしているが、被控訴人に対する反訴請求は他の五名の者に対する各請求のそれぞれ独立し、その間に「訴訟の目的が共同訴訟人の全員につき合一にのみ確定すべき」法律上の必要が存しないので、必要的共同訴訟に属しないと解すべきである。したがって被控訴人の右主張は失当である。

五  そうとすると被控訴人の本訴請求中甲乙地についての確認請求および丙地への立入禁止請求は理由がなく、これと異なり、右各請求を認容した原判決―控訴人ら敗訴部分―は失当であり、本件控訴は理由があるので、右部分を取り消し、右各請求を棄却すべく、また控訴人らの反訴請求はいずれも理由があるからこれを認容することとし、民訴法三八六条、九六条、八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 三和田大士 裁判官 鹿山春男 新田誠志)

〈以下省略〉

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